こんにちは。木の実です。
私は新卒から勤める会社に15年以上勤務する40歳独身会社員です。
大企業ではないものの、希望していた企業に就職することができ
キャリアを重ねて管理職に。
自分の稼ぎで単身自由にそれなりに暮らしていけるけど
仕事もプライベートもこのまま変わらないのかな…
と、変化のない暮らしに、半分は希望を持てず、
半分は「このままでいっか」と受け入れていたところ、
世の中で副業の解禁が進み、
例外なく私の会社でも副業が認められるようになりました。
コロナ禍でも変わらず毎月お給料をいただける「会社員の安定感」を手放さずに
他のことにチャレンジできるのは願ってもない機会。
副業したい。やってみたい。
そう思い、趣味で取っていた資格を手に
まずは自宅レッスン開催に向けて動き出したものの、
新卒から会社員しか経験したことのなかった私は
- どうやって集客したら良いかわからない
- 直接お金をいただくことに抵抗がある(もちろん、無償奉仕したいわけではない)
と、ビジネス初心者の壁に早々にぶち当たります。
会社の中では着実にステップアップしていたはずなのに、
いざ個人としてお仕事をしようとした時には丸裸で何も武器がなかったのです。
金銭的には無理に副業にチャレンジする必要は特にありません。
武器がないなら別にやらなくても良い…
お金は欲しいけど、顔が見える人から直接いただくことには慣れない…
抵抗があるならお金をもらわずに趣味の活動にとどめたって良い…
諦めの言い訳はいくらでも思い浮かびました。
でも、モヤモヤする気持ちは残っていて、40歳の節目にふと思ったのです。
- 会社の中でしか評価されない自分で良いの?
- 会社勤めもいつか終わる。その時に十分な貯金がなかったら?
- 会社から離れたら1円も生み出せないままでいいの?
- 自分で「やってみたい」と思った副業なのに成果出せなくて良いの?
そこで、私は改めて
やっぱり個人で稼ぐ力を身につけたい!
会社員を離れても、貯金がなくても「将来安定!」と言えるようになりたい!
そう決めました。
今、必要なのは収益化する力=マネタイズスキル
このブログでは、丸腰の会社員がマネタイズスキルを習得し、
収益に繋げていく軌跡をありのままにお伝えしていきます。
同じように副業にチャレンジしたい方、
人に誇れるスキルはあるのに収益化できていない方に
少しでも参考になれば幸いです。
私の自己紹介を交えながら、この思いに至った経緯をもう少し詳しくご紹介します。
基本情報
・名前:木の実
・年齢:40歳
・仕事:会社員(管理職)
・出身:埼玉
・趣味:カメラ
小学校〜中学時代
学生の頃はいわゆる“優等生タイプ”でした。
学級委員や生徒会には率先して自分から手をあげ、成績も上位。
体力にはあまり自信はなかったものの、運動音痴でもなく体育の成績もそこそこ。
夏休みの宿題も、7月中に全て終わらせるようなタイプだったので、
はたから見れば、“何でもできる真面目な子”だったと思います。
ただ、一方で習い事はコロコロ変え、長く続いたことはほとんどありませんでした。
すぐに新しい別のコトに目移りしてしまうのです。
中学生くらいまでにやってみた習い事は数知れず…
- ピアノ
- 水泳
- 体操
- 新体操
- 書道
- 絵画教室(×2カ所)
- 英会話(×2カ所)
- ミニバス
- テニス
他にもまだまだあったかもしれません。
お教室に通った習い事以外にも、近所の方に手芸(パッチワーク)を習ったり、
親戚からパソコン(初期はまだワープロでしたが…)を教わってみたりと、
とにかく何でも試してみたくなる性分でした。
しかし、比較的飲み込みが早かったからか、少しできるようになると
すぐに他のモノに興味が移ってしまう、熱しやすく冷めやすいタイプでもありました。
“人生で1番努力した” 高校受験
飽きっぽい私が未だに「これまでの人生で1番努力した」と思えるのが高校受験です。
1学年300名程いる大きな中学校の中でも、あることをきっかけに
常に成績Top5をキープしていた私は、地元の公立高校ではなく
都内の国立大学の附属高校を目指すようになります。
が、受験勉強は本当に過酷でした。
学校の成績が上位だったとは言え、実は私は終わるとすぐに忘れてしまうタイプ。
定期テストは直前の頑張りでなんとか良い点数がとれていましたが、
受験勉強となると一過性の努力ではどうにもなりません。
勉強したことを1年間蓄積していかなければならなかったのです。
「続ける」ということは想像以上に大変でした。
また、目指す先が国立や私立となると、学校の勉強だけでは全く追いつかないので
中学3年生のカリキュラムが始まるタイミングで、初めて塾に通い始めます。
塾なんて面倒だと思っていたものの
これが私にはハマりました!
私が通った中学校は体育会系の風土が根強く、
スポートテストの結果は廊下に名前がバーンと張り出される一方で
テストの成績の公開はなく、本人に順位が伝えられるだけでした。
それに対し、塾ではやればやるだけできるようになって、
先生からも評価され、大事にされました。
私がいた上位クラスは数人だけ、生徒数20〜30名の他のクラスと授業が重なっても、
人数関係なく、塾の中で1番広い大部屋が割り当てられたことは驚きでした。
塾に通ったことで、一緒に頑張る仲間ができたことも大きかったです。
目の下にクマを作ってまで勉強している友達を見て、
負けじと睡眠時間を削り、好きだったテレビも封印して
受験が終わったら一気見しようと全て録画に切り替えました。
もちろん、受験勉強の1年の間には、勉強が嫌になって発狂しそうになったり、
「落ちる」という言葉に極端に過剰反応して家族を困らせたり、
全てが平穏に進んだわけではありませんでしたが、
目標が明確で、やるべき課題をこれでもかと与えてくれる環境があったので
続けることができたのだと思います。
そうして、無事、第一志望の高校に合格することができました。
高校時代:努力は評価されない?!
晴れて希望の高校に入学した私は、高校生活でやりたいことが2つありました。
- バレーボール部に入ること
- 短期留学すること
中学では体育会系の雰囲気を嫌い、スポーツをしなかったことを後悔していたので
高校では迷わずバレー部を選択しました。
ただ、長続きはしませんでした。
1年の夏が終わった頃に早々に退部してしまったのです。
辞めた1番の理由は、頑張っても評価されない…!と感じてしまったことでした。
女子の部活の中では、特にハードと言われていたバレー部。
夏休みもかなりの頻度で練習がありましたが、私は部活最優先でのぞみました。
「夏休み、欠かさず練習に参加したら、休み明けの試合で1年生もベンチに入れる!」
と聞いていたからです。
同期の中には、体調不良や家族旅行で何日か休む子もいましたが、私はもちろん皆勤賞。
上級生が少なく、1年生の8人中6人がベンチ入りできること、
みんなの出欠状況を考えれば、当然自分のベンチ入りは確実と思っていました。
ところが、私は外されてしまいました。
ショックでした。
もちろん、ベンチ入りできても試合に出れるわけではなかったので、
コーチからすればきっと「誰が入っても同じ」だったのでしょう。
今思えば、あまり深く考えずに、
その時たまたま目があった私の名前をあげただけかもしれません。
それでも、私よりはるかに欠席が多かった子が
ベンチでメンバーの一員としてチームを応援する一体感に包まれる中、
完全に蚊帳の外で大会の運営ヘルプにまわされた私は、
努力を蔑ろにされた気持ちになってしまい、悔しくて悲しくて悲しくて…
(大会の運営自体は嫌いではなく、むしろ得意分野でしたが)
理不尽さにどうしても納得できず、先輩からの引き留めも響かず
そのまま退部に至ります。
サマースクールから始まる海外交流
部活から離れて時間ができた私は、
もうひとつの興味関心の対象だった海外に意識を集中させます。
実は中学生の頃から、「将来絶対に留学する」と決めていました。
- 高校で1ヶ月の短期留学
- 大学で1年の本格留学
結果的にこの目標は2つとも叶うことになります。
高校2年の夏に渡英。全寮制のサマースクールに1ヶ月ほど通いました。
同じ英語圏でも
イギリスの学校にはヨーロッパ諸国の学生が多く集まる
と聞いていた通り、
イタリア人を始め、何人もの欧州の友達ができ、その後も交流を続けました。
海外交流の当時の主なツールは、まさかのエアメール(お手紙!)。
Eメールも使っていましたが、まだ国際交流はまだまだアナログが主流な時代。
(今から2○年前!)
今みたいにスマホでやり取りできればどんなに楽だったかとも思いますが、
なかなか届かない分、手紙が届いた時の嬉しさも大きく、
当時送ってくれた、翻訳版の『クレヨンしんちゃん』は今も大切にとっています。
(スペインの方言だったので、内容は理解できないんですけどね・笑)
人生初の挫折
この短期留学の経験を手に、高校3年の夏、
私は私立の特別選抜入試(当時はAO入試と呼ばれていました)を受けました。
本当はずっと第一志望に挙げていた本命大学が別にあったのですが、
高校受験が完全燃焼だった分、すぐにまた勉強に向き合う気持ちになれず、
早くに受験を終えられるAO入試に浮気してしまったのです。
AO入試は学力テストがなく、書類選考と面接だけで合否が決まる受験形式。
サマースクールの経験をもとに書いた自己PRは書類選考を無事突破。
そして迎える、人生初めての面接。
・・・
・・・
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自分が面接が苦手なんて全く思っていませんでした。
- 特に人見知りではなく、子どもの頃から友達は自分から作りに行っていた
- 学級委員や生徒会として人前で話すことも多かった
- 事前に準備したことをきちんとテストで発揮できる本番にも強いタイプだった
それでも、面接は全く別モノでした。
自然体でいることが難しく、スムーズな受け答えが全くできなかったのです。
もちろん万全の準備で臨んでいたつもりでした。
ただ、想定外の質問をされた時に頭が真っ白になってしまったのです。
自分の価値観でしか物事を考えられていなかった浅さを一瞬で見透かされたのか、
プレゼンした内容の大前提を覆されるような質問にしどろもどろになって面接は終了。
合格するイメージを描けず、母と二人、帰りの電車は重い空気に包まれました。
結果は当然、不合格。
この時は、さすがにちょっとだけ荒れました。笑
- テストではなく面接で落ちた
→人格を否定されたような気持ちになってしまった - 合格していたら受験のストレスから解放されていた
→再び受験勉強に向き合わなければならない
2つのことが重くのしかかり、だいぶ自暴自棄になっていました。
とはいえ、大学に行かない選択はもちろん、
勉強する期間がさらに伸びてしまう浪人生活は
もっと考えられなかったので、なんとか一念発起。
もともとの第一志望校に照準を定めて勉強を再開しました。
この時、友人がサラッと言ってくれた言葉は今も忘れられません。
「落ちたから最後まで一緒に受験できるじゃん。
みんなが勉強に追われている中、一人だけ終わってても辛かったと思うよ」
気持ちを切り替えた後は「もうあとはやるだけ」。
負けず嫌いも力となり、
「AO入試で落ちた大学も通常試験でリベンジしてやる!」
とエネルギーに変えました。
結果はリベンジマッチを含めて全勝!
当初の第一志望だった語学に強い某大学に進学することになります。
居心地の良いキャンパスライフからいざ留学へ
大学時代は本当に充実していました。
- 1年間の交換留学
- サークル活動
学生の時にしかできないことを存分に楽しんだと思います。
感覚が近く、気が合う友人もたくさんいて、穏やかに楽しい時間が流れていました。
高校では部活をやり切ることができなかった私も、大学のサークルは卒業まで継続。
決して楽なサークルではなく、
合宿も年2回あれば、学祭前には深夜の闇練もやる部活みたいに
大学一活動量が多いサークルでした。
(無意識に大変なところを選んでしまう性分のようです…)
それでも、大学の風土として、海外留学はとても身近で
むしろ、留学しない方が驚かれるような環境だったので、サークルとの両立も問題なく、
20歳の時に私もいよいよ本命の1年間の留学を叶えることとなります。
留学先はイタリア。
実は、大学で専攻したのは英語ではなくイタリア語。
イタリアへの留学も、中学生の頃から決めていたことでした。
留学と言えば、考え方や価値観に大きな影響を及ぼす
一大イベントになるものですが
私が過ごした1年はただ、ただ、楽しかった。
言うまでもなく紆余曲折はありました。
言葉の壁や文化の違いも、エピソードを書き出したらキリがありません。
でも、高校生のうちに短期留学を経験していたこと、
昔から「イタリアに行く」と決めていたことから、
特別、大きな価値観の変化は自分では感じられませんでした。
それよりも私にとって誇らしかったのは
高校の短期留学中に仲良くなったイタリア人との再会。
日本と違い、時刻通りに電車が来ることのないイタリアで
地方のど田舎住まいの友人に1人で会いに行くのはなかなか勇気がいること。
それでも
一度仲良くなった人とは関係を維持していきたい
という思いが強かった私は、北から南まで、各地の友人を訪ねて
よく一人旅をしたものです。
一度、せっかくなので、和食も1回くらいは食べてもらいたいと、
醤油持参で友人に会いに行ったのですが、
現地でも手に入る野菜多めで作れるものが良い、と思って作った焼きうどんは、
パスタ大国のお口には合わなかったようで、ものすごく怪訝な顔をされました(笑)。
それでも、4年ぶりの再会にご家族揃って歓待してくれて
「連絡を取り続けて良かった」と心底思ったのです。
通訳経験でわかったこと
大学卒業後はワインの輸入商社に就職。
海外との接点がある部署は限られてはいましたが、
幸い、入社3年以内に希望していた販売促進を担う部署に配属になりました。
主に担当した業務は、販促物の製作と来日イベントの企画・運営。
裏方だけでなく、取引先のワイナリーが来日する際に通訳として全国各地に同行し、
オーナーや醸造家(ワインの造り手)の言葉をお客様に伝える役割を担っていました。
- 百貨店やワインショップのバイヤーとの商談通訳
- レストランやホテルのソムリエ向けのワインセミナー通訳
- 一般消費者も参加するディナーイベントの通訳 兼 司会進行
- スーパーの試飲販売
- 会食通訳
ソムリエ相手に詳しいワインの造りを語るプロ向けの企画もあれば、
一般消費者向けに楽しんでもらうことを目的としたイベントなど、ジャンルはさまざま。
朝地方に移動し、ランチから深夜近くまで企画が続くことも珍しくはなく、
体力的には相当ハードだったものの、
通訳の仕事をしている自分は好きでした。
生産者が語る言葉を、相手に伝わりやすいように日本語を補いながら訳した時に
相手にスッと伝わって「うんうん」とうなづいてもらえると嬉しかった。
- 学生時代の経験・スキルを生かした仕事をしている誇らしさ
- 関わった人に「すごい」と褒めていただける高揚感
- 相手が知らなかったことが、私の言葉を通して理解してもらえる達成感
「良い仕事をしている!」とやりがいを感じていました。
ただ、経験を重ねるうちに、自分にとって
通訳しやすい場面としづらい場面があることが明確にわかってきました。
実は私が1番苦手意識を持っていたのは、会食通訳。
何十人、何百人が注目するかしこまったセミナー通訳より、
食事しながらの和やかな雰囲気の会食の方がハードルが高いと感じていたのです。
セミナーでは予め話の流れが決まっていたので、
「訳す内容」や「着地点」を事前に把握することができたのに対し、
会食の話題はどこに突然飛ぶかわからない。
日本経済の小難しい話をしたかと思えば、
急に笑いをとるためにオチのある話を混ぜてきたり(オチを知らずに訳すのは激ムズ…)、
初めて聞く地名や料理名などの固有名詞もバンバン出てくる…
恐怖でしかありませんでした。笑
後輩ができて、私は徐々に現場から離れてマネジメント業に移行しましたが
通訳経験を通して改めて自分の得意と苦手を実感することとなりました。
現実を知る:たくさん学んでも稼げない?
多少の不満はありつつも、やりがいのある職務で会社員生活が充実していた中、
習い事に精を出し、その中でもフォトレッスンに通い始めます。
写真を撮るのは昔から大好きでした。
好奇心旺盛で常に好きなことがたくさんあるタイプでしたが
幼少の頃から変わらずのめり込んでいたのが写真だったと思います。
学校行事や留学中など、フィルムの頃からイベントのたびに撮り続け、
いわゆる「思い出写真」は少なくとも人の5倍6倍撮ってきました。
社会人になって、仕事でプロの撮影現場に立ち会ったことをきっかけに
「ちゃんと学びたい」とぼんやり考えていた私は
当時勢いのあったテーブルフォトの協会に通い詰めます。
レッスンを受けること、新しいことを学ぶのがとにかく楽しく
どんどんのめり込み、資格取得まで進みました。
当時は会社で副業が認められていなかったこともあり、
すぐにレッスンを始めようとは思っていませんでしたが、
同時に、同じ協会所属のメンバーにちょっと嫉妬心を抱いていました。
すぐに自分のレッスンをバンバン開催している活躍ぶりや
ブログの発信で有名になっていく姿がうらやましかった…
当時はアメブロ全盛期。まだ日本でInstagramが流行る前から、
個人としての発信者として力をつけ、認知度を上げていく姿を羨ましく思う一方で
幼少期から比較的器用にものごとをこなしていた私は
「本気でやればきっと私にもできる」とちょっとタカを括っていた
気持ちもあったように思います。
でも、結局、私にはできなかったのです。
- 副業始める時になって動けば短期集中でこなせるはず…
- 教わったことを理解していればうまくいく…
まずはやってみるということに重きを置かずにいた私は
コツコツ発信し続けたり、自主制作でポートフォリオを作るでもなく、
受け身で学ぶことだけに時間を使って過ごしていました。
気づけば、自分では「写真は得意」と思っていたのに
協会メンバーの中ですっかり遅れを取ってしまっていました。
学校の勉強や会社での与えられた仕事に対してしか
成功する方法を知らなかったことにようやく気づいたのです。
40歳を迎えて:新たなチャレンジ
このブログでは、学校や会社という組織の中で、
正解が与えられているレールの上では順調だった会社員管理職の私が、
マネタイズスキルを習得し、個人で稼げる力をつけ
会社員を辞めても、貯金がなくても「将来安定!」
と思えるような実績を積み重ねていく過程をご紹介していきます。
「安定の会社員なんだし別に無理してやらなくても良いんじゃない?」
そんな声も聞こえてきそうですが、
ぜひ見守っていただけたら嬉しいです。